鷺宮でオリンピック開催?

 ロンドンオリンピックでは、実況中継放送が夜明け前からの時間帯にも関わらず、テレビの前で力強い声援を送った人も少なくなかったことと思う。

 2020年のオリンピックが東京での開催が実現となるかについても気になる所である。オリンピックでは、競技に真剣に挑む選手だけでなく、国家や企業、地域間でも政治・経済面での熾烈な争いが展開されている。

 1964年の第18回夏季オリンピックを知らない世代も多くなっているが、戦前の第12回大会の東京での開催が決定していたにも関わらず幻となったことはご存じだろうか。日中戦争の影響等から、軍部から鉄材の使用制限が強力に求められたり、海外から参加ボイコットの声が上がるようになり、大日本帝国政府は開催権を返上したためであった。

 この経緯については『オリンピック・シティ 東京1940・1964』(片木篤、2010年、河出書房新社)にくわしく書かれており、大変興味深い。読んでみて大発見だったのは、鷺宮が大会競技場の建設候補地の一つだったことである。この本の中では詳細は書かれていなかったが、気になったので当時の新聞記事を調べてみた。大会競技場の建設候補地についての記事は1937年1月10日付けの読売新聞と、同日付の東京朝日新聞の誌面に見つけることができた。

 東京朝日新聞記事は、競技場の条件はメインスタジアムは見学者10万人を収容し得るもので、自動車置場、交通路を除いて1万坪以上の広場を必要とし、競技場は5万人、水泳場は2万人、体育館(予備とも)は各5千人を収容し得るものだったことを伝えている。そして大会競技場候補地には、代々木、芝浦埋立地、駒沢、上高井戸、杉並、井荻、砧、鷺宮、神宮外苑の9カ所が名乗りを上げていたことが書かれている。読売新聞記事では「われもわれもと名乗りをあげた」との表現もあり、激しい誘致合戦があったことが推測される。東京市役所では月島を候補地として推進していたが先に除外され、上記9カ所が実況検分が行われて、ふるいにかけられたと記している。

 杉並は34万5千坪、上高井戸は40万坪、井荻は50万坪、鷺宮も31万5千坪と、広大な用地を候補地としていた。地域発展の起爆剤にと用地の提供に協力的な人も少なくなかったのだろう。当時は郊外だったためにそれだけの用地を確保できる見通しがあったのだろう。西武新宿線が開通したのは1927年のことで、上井草へ府立農芸学校(現農芸高校)が移転してきたのは1928年である。鷺宮へ府立高等家政女学校(現:鷺宮高校)が中野駅前から移転してきたのは1938年である。学校施設が少しずつ設置されるようになってきたが、ほとんどは田園地帯だった。広大な敷地が得られるプラス面よりも、都心から遠距離だというマイナス面が大きいという判断がされたのだろう。杉並や上高井戸も同様の理由で難色が示された。もし競技場が建設されることになっても、用地買収ではお国のためと非常な(非情な!)安値になったのではないかと思われ、地域の人々も様々な形で労働奉仕などの負担もあったのではないかと思う。

 結局、主会場には、世田谷区の駒沢ゴルフ場の跡地と神宮外苑を充てることになった。12回大会は戦争のために中止となり、ここにも競技場は実現しなかった。しかし、これらの用地は1964年の第18回大会でそのまま利用されることになり、今でも駒沢競技場や国立競技場として多くの人達に親しまれている。

 鷺宮がオリンピック競技場候補地に名乗りを上げたことについては、中野区史や「鷺宮の歴史をたどる」には書かれていない。何かご存じの方は、お知らせいただければ幸いです。

著者: 佐藤良徳 (元都立鷺宮高校教諭)
 

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